偽善について

偽善について考えるときには必ず思い出すことがあります。


それは大学生の頃。当時の私は慈善活動やボランティアとは無縁で、むしろそういう人を軽蔑するような学生でした。それでもカトリックの寮に住んでいたので募金活動とかに熱心なおばさんとかが出入りしていて知り合う機会もあったのですが、彼女らの募金するのが当たり前という考えをすごく不快に思っていました。(キリスト教徒でも無い私がカトリックの寮に住んでいたのはただ単に家賃がただだったからです。)


ある年の大晦日前、実家に帰省するときに長距離の夜行列車に乗ることがあって、たまたま隣に乗り合わせた初老の人が目の見えない人だったことがありました。それに気づいたのはその老人がしばらくして私に、「トイレに行きたいんだけど、目が見えないから連れて行ってくれないか」というようなことを言ったからです。正直面倒臭いなと思いましたが、私はその老人の手を取り揺れる列車に気をつけながらゆっくりトイレまで案内し、親切にもそこで老人が出てくるのを待ってまた手を引いて座席まで連れていきました。


その老人は私にお礼を言っていましたが、私は別に話をする気も無いのでほとんど無視していました。覚えているのは確か函館の息子のところに行くというようなことを言っていたことで、こんな年の瀬に目の見えない爺さんに一人で来させるなんて可哀想だなって思ったことくらいです。


列車は函館について私も乗り換えの為に一度降りるのですが、私は老人の手を取り列車から降りるところまで手伝いました。予め連絡をしてあったのかそこには駅員が出迎えていて私は老人を引き渡し逃げるようにその場を離れました。それでもちょっと気になったので振り返ってみると、なんと老人は私がいない方向に頭を下げてお礼を言ってるんです。私は何かを振り払うように急ぎ足で改札を出ました。


たぶん同じ状況なら誰でも同じことをするでしょう。目の見えない老人に親切にするだけです。でも私はできるだけそんなことはしたく無いと思って生きてきました。他の人に偽善者だと思われたく無かったし、そんなのは本当の親切じゃない。単に人に親切にしている自分に酔いたいだけだ。


でも実際は老人に感謝されて素直にうれしいと思う自分がそこにいたんです。それを認めたくなくてその場を逃げようとしていました。自己満足でうれしいと思っている自分は確かにあって、私はそれと向きあいたくない為に逃げて、慈善活動を馬鹿にし募金者を軽蔑していたのです。自分の中には自分が軽蔑してきた自己満足の自分、偽善者が最初からいたんです。


そのことに気づいてからは、少し楽になれた気がしました。
私は今でも偽善ではない純粋な善があるのかどうかもわかりません。
でも人に偽善者と言われたら、たぶん「はい、偽善者です」と胸を張って答えると思います。